いつもひふみのしくみを
お読みくださり
ありがとうございます。
連載の①はじまりはここから。
③前回はこちら。
わたしは
2017年12月23日(天皇誕生日)に
どうしても神武天皇古戦場に
行かなければならない気がして
いてもたってもいられなかったので
日下山に行ってきました。
その記録を綴ってまいります。

近鉄石切駅を北へ進むと
大阪平野が一望できます。

ここから見える眺めは素晴らしく
穴場の夜景スポットなのです。

ここは日下山(饒速日山)であり
イワレビコとナガスネヒコが
最初に戦った古戦場の
いわれがあるのです。

バス停から見えるこの景色は、
神話を彷彿されられます。
縄文時代は河内湾が
生駒山の山裾まであり、
イワレビコ(神武天皇)は
ここにたどり着いたのです。

イワレビコ軍の襲来を
事前に察知していた長髄彦は、
日下山(草香山)で
兵を揃えて待機していたのです。

神話では言及されていませんが、
なぜ長髄彦はイワレビコが
日下国を奪いに来たことを
事前に知っていたのでしょう。
やはり
縄文人の予知能力でしょうか。
現代人にとっては特異でも、
もともとは人として備わっていた
ごく普通の能力だったのです。

人間の脳に「松果体」という
珪素でできた器官があります。
縄文人の松果体は
非常に発達していました。
すべてを見通す第三の目や
テレパシックな直観力は
松果体が司っているのです。
松果体を構成するのは珪素です。
すみわたるきれいには、
植物珪素の熊笹が入っています。

現代人は
松果体が退化(石灰化)
してしまっているために、
物質的価値観
(自我意識・五感のみ)
に縛られてしまっています。
松果体を石灰化させてしまう
おもな要因はフッ素化合物です。
戦後アメリカが日本にもたらした
チューブ入り歯みがきに
入っていますね。

道の突き当たりを右へ進みます。

白龍大神という案内があります。
この辺に神社があるようです。

旧生駒トンネルの横に
生駒霊園の入り口があります。
ここは心霊スポットとして
有名なのです。
しかしそのような場所に
面白半分で近づいてはなりません。
興味本位で訪れることは
控えられるのがよいでしょう。

この日は画像のとおり、
不気味な雰囲気でしたが
なぜかわたしの精神状態は
研ぎ澄まされていました。
わたしは自分の意思で
ここへ来たというよりも、
土地の想念に呼ばれて
ここに来たのです。

不思議だったのは、
追い風がわたしの背中を押し、
手のひら大の葉っぱがずっと
わたしの前で回転しながら
道案内してくれたことでした。
葉っぱが「こっちこっち!」と
案内してくれたのです。

到着するとまずトンネルの周囲を
ぐるりと歩きました。
するとトンネル周囲の
笹の葉が次々とわたしに
頭をもたげてくれました。
わたしは笹の葉に触れながら
ありがとうと言って歩きました。
この土地はわたしが来るのを
ずっと待ってくれていたのです。

そういえばわたしは子供の頃、
旧生駒トンネルの前に
よく遊びに来ていました。
友達の父が鉄道マニアで
よく一緒に遊びに来たのです。
当時は堅牢なフェンスがなく、
車庫になっていて
コスモスが咲いていたような
記憶があります。
昭和50年後半のことです。
友達の父は鉄道好きが高じて、
このすぐ近くに引っ越したのでした。

その頃によく聴いていたのが
みんなのうた「かざぐるま」です。
今でもこの曲を聴くと
旧生駒トンネルが思い出されて
切なくなるのです。
その頃のエピソードはこちら。

開業当初(大正3年)の
駅名は日下でした。
しかし難読だからという理由で
孔舎衙坂に変更されました。
しかしこれも難読だからといって
孔舎衛坂と名付けられたのです。

写真中央奥に
封鎖されたトンネルが見えます。
今はもうレールはありませんが、
プラットホームが残されています。
実はこのトンネルには
とても悲しい歴史があるのです。

1914年(大正3年)開業時の写真。
1911年(明治44年)にトンネル着工。
建設は地質の変化や湧水等に
悩まされ予想外の難工事となった。
1913年(大正2年)1月26日に発生した
落盤事故では152名が生き埋めとなり、
20名の犠牲者が出た。
1946年(昭和21年)4月16日に
トンネル内で発生した車両火災では
23名が死亡し75名が負傷した。
1947年(昭和22年)に再び発生した
火災では約40名が負傷した。
1948年(昭和23年)3月31日には
急行列車がトンネル内を走行中に
空気ブレーキ(直通ブレーキ)を破損、
大阪平野に向かう下り勾配を暴走し、
河内花園駅で先行の普通列車に追突、
49名が死亡、
282名が負傷する大惨事が発生した。
(以上Wikipedia生駒トンネルより引用)

物質文明というものは
自然を破壊する性質である以上、
山に穴を開けざるを得なかった。
この山は生駒山でも
饒速日山と呼ばれた日下山。
奈良と大阪を線路でつなぐには
生駒山を突破しなくては
ならなかったのです。
けれど土地の想念は
日下山にトンネルを掘ることは、
神話時代を繰り返す侵略行為に
他ならなかったのでしょう。

旧生駒トンネルにまつわる
数々の大惨事を祟りと恐れて
白龍大神が祀られたのかも
しれません。
わたしたちは便利さの裏には
自然を犠牲にしてきたことを
反省しなくてはなりません。

トンネル横の神社が白龍大神です。
地元の人の話によりますと、
工事中のトンネルから
白蛇さんが出てこられたことから、
地元の方がお祀りしているのです。

鳥居の奥に続く
階段を上がったところに
白龍大神の祠があります。

このトンネルの長さは
3388メートルです。
33と88は
宇宙に通じる数字ですから、
このトンネルの封印が解けたら
新たな次元が開くかもしれない
と思いました。

わたしは
この土地の封印を解除した後、
カラスがカアカア鳴き、
鳥たちが一斉に鳴き始めました。
すると
入り口に近鉄の白い軽自動車が来て、
職員がフェンスを開けたのです。

そして軽自動車は
トンネルの前まで進み、
ななな、なんと!!!
職員が車から降りて鍵を開け、
トンネルのゲートが開いたのです。

そしてゲートが完全に空いた状態で
軽自動車は入っていきました。
その間トンネルは
開いたままだったのです。
しばらくしてから
軽自動車が中から出てきて
ゲートは閉じられたのでした。
(実話!!)


その一連の作業を
呆然と見ていましたので、
撮影することを失念していました。
後になってから気づくのですよ。
これは
封印解除の現象化
だったのだと。

ここは
長髄彦が
神武天皇を撃退した
日下山。
さらに詳しくはここに書きました。


今回も最後までお読みくださり
ありがとうございました。
封印解除の記録は続きます。