いつもひふみのしくみを
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神武東征に隠された
秘文の仕組みを書いています。
日下の民を目覚めさせるために。
連載の①はじまりはここから。
⑤前回はこちら。

生駒山麓の日下山は
饒速日山と呼ばれた
八咫烏の本拠。
わたしは
2017年12月23日天皇誕生日に
艮金神のご指示に従い、
日下山の封印を解除しました。
その直後、日下新池では
鴨の集団が祝福の舞を
表現していたのです。

左右に分かれて回転していた
カモ達を見届けた後、
向かう場所がわかったので
直行しました。

ここは以前わたしが
神武東征古戦場に訪れた際、
急にスマホの回線が遮断されて
迷子になったところです。
まあいいかと生駒山に向かって
行き着いたのがここでした。

この神社は
大阪府史跡名勝天然記念物
「孔舎衙坂 直越登り口」
の碑があったのです。
それもそのはず。
この階段を上がれば
神武天皇とナガスネヒコが戦った
古戦場なのですから。

しかしここは春日神社。
つまり中臣氏の氏神神社。
神武天皇を助けたのは中臣氏。
けれど賀茂一族=八咫烏は
生駒山を本拠に
饒速日命を奉じた一族。
しかし神武東征により、
饒速日命の国譲り以来、
生駒山は藤原氏の支配下に
置かれたのです。

創建神武二年の石切神社に
下り藤の紋が
組み込まれているのがその証左。

中臣氏の神道は
8世紀に編纂された
『古事記』『日本書紀』が根拠。
しかし賀茂一族は
記紀編纂以前から
饒速日命を奉じてきたのです。

この階段を上がれば古戦場。
わたしがはじめて訪れたのは
2017年11月3日文化の日。
日本国憲法が制定された記念日。
ここへたどり着いたとき、
「足元を見よ!」
と伝えられたのです。
わたしはアラハバキ神に
ここへ導かれたのです。
アラハバキ神とは足の神。
足の神は長いスネの神。
つまりナガスネヒコなのです。

今は無人ですが、
少年時代の安岡正篤先生が
足しげく通い、
宮司様に薫陶を受けたのです。
境内には安岡先生の揮毫の書や
記念植樹があるのです。

安岡正篤先生は、
昭和天皇を補佐し、
玉音放送の原稿を書いた人。
この神社のすぐ近くには
安岡先生の旧宅があります。

善根寺春日神社の
ご由緒は下の通り。

ご由緒は表。
表には裏があるのです。

ご由緒によると
河内国一之宮・枚岡神社の
分霊を祀る神社です。
しかしここ善根寺春日神社は
「日本最初の春日神社」
と銘打っているのです。

このことについては、
神武東征に鍵があります。
なんといってもここは、
孔舎衙坂直越の道。
神話によると孔舎衙坂は
長髄彦がイワレビコ(神武)を
撃退した地なのです。
境内には直越道と刻まれた
石があります。

直越道は
古代からの生駒山登り口であり
急こう配の難所なのです。

境内の奥には、
牛の像があります。
春日神社は鹿がシンボルです。
なのに牛を祀っているのは、
牛頭天皇=素戔嗚命を
祀っているから。
素戔嗚命は
饒速日命の父なのです。

「神武天皇御東征
孔舎衙坂 古戦場」
と銘打った碑があります。
神話によると、
神武天皇を導いたとされた
八咫烏は
神武天皇の敵方である長髄彦と
素戔嗚命を祀っていたのです。

この地一帯は
饒速日命の日下山であり、
生駒山へ登る孔舎衙坂。
イワレビコは日下国を平定しに
この山を越えようしたのです。
しかしナガスネヒコに
撃退されてしまうのです。

ナガスネヒコはとても強く、
日下国を奪いに来たイワレビコを
滅ぼすこともできたはず。
けれどニギハヤヒはそれを止め、
イワレビコに禅譲したのです。

最強の神スサノオも武力で
周辺国を平定しませんでした。
スサノオが目指した国づくりは、
横のつながりで共存共栄を
目指した連合国。
ニギハヤヒが長髄彦を止めたのは、
太陽神の御霊を受け継いだ
太陽の民として果たすべきは
勝利ではなく和合だったから。

そのことをわたしの目の前に
示してくださいました。
なぜならば古戦場に光が……。
光はそこだけを照らしていて
強力なエネルギーを放っていたのです。

この光を見届けた後、
次の場所へ向かいました。
続きは次回に!
今回も最後までお読みくださり
ありがとうございます。
