天の父は万物の綱紀。すべての父に捧ぐ。

歴史と政治の本質


父の日にちなんで、
父の思い出を書いてみます。
わたしの父は佐賀県出身で
男四人兄弟の三男です。
絵が好きだった父は高校卒業後、
製版会社を立ち上げた社長に
気に入られて大阪で就職しました。

生駒山から大阪平野の眺望


農家出身の父は
大阪平野の夜景に魅入られて、
この景色がいつも見える生駒山麓に
住みついたのでした。
母と結婚してからは石切神社の
参道にある明石焼きが気に入って、
毎週日曜日に母と通っていたのです。

石切神社参道 たこつぼ


父はわたしをよく石切神社に
遊びに連れて行ってくれました。
ここは「でんぼの神様」で有名で、
いつも参拝客でにぎわっていました。
でんぼとはできもののことで、
ガン平癒祈願に参拝する人が多いのです。
当時は白い神馬がいて
餌やりをさせてもらえました。
それがわたしの楽しみでした。

石切神社 イシキリツルギヤ号


日曜日の絵馬殿の周辺には
出店がたくさん並んでいました。
わたしはいつもここで
たこ焼きを食べていたのです。

石切神社 絵馬殿


絵馬殿には
お父さんの神様(饒速日命)と
息子の神様(可美真手うましまじ命)の像が
両脇に鎮座しています。

石切神社 絵馬殿


わたしは
「ここの神様の名前はなんていうの」
と口癖のように父に聞いていました。
そのたび父は、
「石切神社は地元の神様。
枚岡神社は元春日。
だから枚岡神社の方が格上なんや」
と答えるのでした。

枚岡神社


わたしは幼心に、
「なんでいつも
人がいっぱいの石切神社よりも
ひっそりした枚岡神社の方が
格上なんやろ」
と思ったものでした。
その理由は
後からきた神様が地元の神様を
隠した(格下)からです。
記紀神話によると
石切神社の神様(饒速日命)は、
神武天皇に国を譲ったのです。
神武天皇の先祖は
いちばん偉い女の神様なのです。

石切神社


やがて父はわたしに
「宗教に入信したら勘当する」
と言うようになりました。
父は宗教が大嫌いだったのです。
しかしわたしは7歳の頃には
すでに気が付いていました。
日本でいちばんえらい女の神様は
宗教の神様であるということを。
そして因幡の白兎の神様は
石切神社の神様であることも。

出雲大神宮(元出雲)


苦労して国づくりしてきた
因幡の白兎の神様が
いちばんえらい女の神様に
国を譲ってからというもの、
この世界は地獄になりました。
子どもの頃のわたしは
「なんでこの世界には戦争があるの?
もしかして世界を地獄にしたかったん」
と思ったものでした。
うさぎさんを助けてくれた
やさしい神様なら
みんなを苦しめる地獄の世界には
絶対にしなかったはずだから。

出雲大社


父はわたしが10歳の時に
四條畷神社の近くの家を買いました。
父は楠正成公が好きで
よく楠公さんの話をしていました。
四條畷の地名には
楠公や楠公里もあるのに
学校では楠公さんのことを
特に教わりませんでした。
楠公さんは悪党と呼ばれていて
天皇に命を捧げた人物であることを
後で知ることになったのです。

四條畷神社


父は58歳で亡くなりました。
お墓は清滝峠の四條畷霊園にあります。
ここからは夜景がきれいに見えます。

四條畷市清滝峠


遠くに見えるのは六甲山。
手前のガスタンクのあたりの
四條畷市砂公園で
馬の骨が発掘されたのです。

四條畷市砂公園


この辺りは河内湖と
讃良川と清滝川で囲まれていたので
馬の牧場に適していたのです。
ここで約150年間馬を飼育して
河内王権に出荷していたのです。

古墳時代の大阪平野


縄文時代中期の遺構と
古墳時代中期から後期の住居跡が
重なって発掘されたのが砂遺跡です。
ここに秦氏が馬を船に乗せて
故郷に帰ってきたのです。
わたしは
砂遺跡の上に建てられた高校に
何も知らずに通っていたのです。

砂遺跡


父が亡くなって17年後の2021年に
父のスケッチブックが
たんすから出てきました。
これがわたしが持っている
唯一の父の遺品でした。
父は馬の絵を描いていたのです。


父はよく四條畷が誇る景勝地・
室池に行っていました。
室池は讃良の氷室と呼ばれ、
『日本書記』によると
仁徳天皇と持統天皇と
縁が深いことがわかりました。
室池は青い龍の姿をしています。
ここは長髄彦の本拠地でした。

ひふみのしくみ
室池


讃良の馬は
秦氏のシンボルです。
鸕野讃良皇女うののさららのひめみこ(持統天皇)は
讃良の秦氏に養育されたのです。

四條畷市立歴史民俗資料館


持統天皇は
饒速日命を奉じていたのです。
なぜなら
讃良(砂遺跡)の真東には
饒速日命の巨石があるからです。

磐船神社


父が亡くなるのと入れ替わるように、
神職の鈴木先生と出会いました。
先生はわたしに
魂の原理を授けてくださいました。
わたしにはその教えが
すぐにわかったのです。
ある日亡き父が夢に出てきて、
「先生は本物だから、
何かあったら相談するように」

と言ったのです。
鈴木先生は
わたしの前世の父だったのです。
先生は陽明学者の安岡正篤先生から
薫陶を受けておられたのでした。
安岡先生はわたしと同郷で
孔舎衙くさかに住んでおられたのです。
そのことを鈴木先生に知らせると
「安岡先生の意思を継ぐように」
と伝えられたのです。
当時のわたしには先生の言葉が
まったくわかっていませんでした。



ところで
実の父と義理の父は正反対でした。
わたしは正反対を知るために
長男嫁として義理の父に従いました。
義父が亡くなり、義母を見送ってから
わたしは直感に従い、
土地に隠されてきた秘密を
明らかにしていったのでした。

なんとわたしの生まれ故郷は
神武天皇が長髄彦と戦った古戦場で、
饒速日命が神武天皇に国を譲った
神話の伝承地だったのです。
しかし地名の
孔舎衙くさか孔舎衛くさえ
書き換えられていたのです。

神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑


土地に導かれてゆく中で、
「素戔嗚命の潔白を証明してほしい」
と饒速日命から伝えられました。
その流れで歴代天皇とつながり、
導かれていったのです。

高津宮


饒速日命が
「素戔嗚命の潔白を証明してほしい」
と願っていたのは、
饒速日命は大国主だからです。
ウマシマジを始祖とする物部氏は
交叉した剣をシンボルにしていました。
それは父という文字を
シンボル化していたのです。

しかし
いちばんえらい女の神様と
神武天皇に国譲りしてからは
剣を大根に変えさせられたのです。

生駒山宝山寺


大国主のシンボルは巾着袋です。
大国主は
たくさんの子孫を残した
日本人の祖先にあたります。
その父が素戔嗚命なのですから、
日本人の父系をさかのぼれば
素戔嗚命に到達するのです。
素戔嗚命の子孫は
蘇民将来といわれてきました。
素戔嗚命の後を大国主が継承し、
その子孫となる

大和民族(日本人)は
生命の秩序に従い、
代々長男が受け継いできたのです。


父は
東洋思想では「万物の綱紀」とされ、
創造の源とみなされてきました。
このことは
キリストの言う「天の父」や
モーセの言う「ヤハウェ」に相当する
父と子の関係にあたります。
これが宇宙の法則の
不変の「型」なのです。


この法則を捻じ曲げて
「天の父」を「天の母」とする者は
反キリストとなり、
悪魔の教えとなるのです。
それがカルト宗教です。
このことが父が
「宗教に入信したら絶縁する」
と言った真意だったのです。
下は日本で初めて発掘された
イエズス会のシンボルが刻まれた
墓碑です。

四條畷市立歴史民俗資料館


わたしに長男が生まれたとき、
義父は毎日長男を抱きに来ました。
一方、実の父はわたしの長男を
抱こうとしませんでした。
正反対の二人の父は
法則どおりの行動をとったことで
互いに秩序を守っていたのです。
それは遺伝子に埋め込まれた
情報どおりの行動だったのです。


しかし我が国は
外祖父が娘の孫(天皇)に
干渉し続けたことによって
家族崩壊を繰り返し、
国難を呼び寄せてきました。
外祖父は
素戔嗚命の子孫ではなかったために
法則に背く行為をしたのです。


振り返ってみますと、
これまで出会ったすべての父は、
みな霊的な導き手でありました。
このことは
自分が親になって初めて
わかるようになったことの一つです。
すべての父に感謝します。


今回も最後までお読みいただき
ありがとうございました。
母についてはこちら

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