母なる大地は命を生み出す源。縄文の女たちの思いはいつも同じ。

女たちよ命を守れ


父は男性原理、
母は女性原理。
男は霊、女は肉体。
ゆえに創造は
霊を物質化する男女共同作業。

高津宮


前回は父について書きましたが、
母のことも書かせていただきます。
母は23歳でわたしを生みました。

わたしは成長するにつれて
足の痛みを訴えるようになったため
母にあちこちの大学病院へ
連れて行かれました。
当時はどこへ行っても
原因不明でした。

生駒山麓に住んでいた小4の夏、
母は新聞を見てここだと直感し、
高津病院へ連れて行ってくれました。
それではじめて遺伝性のない
先天性の血脈の奇形だと
わかったのです。

高津病院


以来、
主治医の先生とは定年されるまで
お世話になってきました。
わたしの病名は
日本で症例がほとんどないらしく、
先生の研究の対象にされていました。
治療法はなく一生治らないそうで
「悪化したら足を切断するよ」
と先生から言われ続けていました。
病院のロビーには
手術で切断した脚の写真が
何年も貼られたままになっており、
通院するたびに目を背けていました。


教科書に載っている
片足のない遮光器土偶は、
まるで自分事のようでした。


先生からは妊娠・出産のときが
一番危ないと言われていました。
外国の症例では分娩時に
大量出血で死んでいるからでした。

一人目は無事生まれましたが、
二人目は流産、
三人目は産婦人科の先生からは
「あんた死ぬよ。うちでは無理」
と言われて大学病院に回されました。
大学病院では真っ赤になった
カルテを見せられました。
合併症で歯が抜けたこともあります。
それがきっかけで作ったのが
すみわたるきれいです。

主治医の先生は退職のため
2019年8月で
最後の受診となりました。
その3か月後にわたしは
「民のかまど」を知りました。

仁徳天皇は
高津宮から見える民家の屋根から
煙が立ち上っていないことに気づいて、
民が困窮していることを知り、
6年間無税にしたお話です。

仁徳天皇 民のかまどにみる聖帝物語


わたしはそれ以来、
仁徳天皇を思うと泣けて仕方がなく、
ついに高熱で寝込んでしまいました。
観念して高津病院の向かいの
高津宮へはじめて行きました。

高津宮


ご祭神は仁徳天皇でした。
それがきっかけで仁徳天皇と
つながるようになったのです。
ひふみのしくみ勉強会
わたしの意思とは
まったく別の意思によって
はじまったのでした。

ひふみのしくみ勉強会


ところで母は大地であり、
女性原理は肉体ですから、
産まれた子供の健康管理は
母の役割です。

わたしは母のおかげで
脚を切断せずに済みました。
母はとても気にしていましたが、
生まれつきは
母のせいではありません。
子は母の体を借りて命がけで
産んでもらっているからです。

四條畷市歴史民俗資料館


「原因不明の」
先天性疾患はありません。
どんな場合も
原因(霊)の世界を知らなければ
結果(肉体)を知ることはできません。

先天性疾患の原因とは、
本人が転生する前に決めてきた
魂の計画なのです。
肉体はその表れにすぎません。
魂の計画を
肉体にシンボル化することで、
今生で思い出せるように
設定していたのです。

血赤サンゴ


ですからお母さんは
自分を責める必要はありません。
血を分けた親と子では、
遺伝病を受け継ぐこともあるでしょう。
それも転生前に自ら両親を選び、
両者が同意した結果です。

お母さんにはご苦労を
かけるかもしれませんが、
子は母のサポートがあってこそ
成長させてもらえるのです。
子を持つ親になっても
母には生涯感謝です。

四條畷神社


うまれつきのことは、
本人が悲観することも
他人と比べることもありません。
神との約束で決めたことですから、
他人から何と言われようが、
なんとも思っていません。
相手が無知ゆえの言動だと
知っているからです。

そもそも外聞に
動じない精神を備えていなければ
その肉体に宿る許可が下りません。
肉体レベルで魂の計画を
頓挫させるわけに
いきません。
あくまでもその肉体を使って
魂の計画を粛々と遂行するのです。

高津宮


さて、仁徳天皇は
高津宮から真東に見える生駒山から
登る太陽を奉じていました。
日下は饒速日命の皇居でありました。
その神の御心のままに政をしたので
ひじり(日知り)のみかどと呼ばれました。


高津宮へ行ってわかったことは、
仁徳天皇の皇后は、
記紀では嫉妬深いことで有名な
磐之媛いわのひめではなく
葦姫あしひめ皇后だったことでした。

高津宮では毎年、
二万年前の神代杉を動力にし、
船に縄を結んで祈る
「とこしえ秋祭り」が行われます。
神代杉は足の形をしています。
足はアラハバキ神の

シンボルなのです。

高津宮


仁徳天皇は
饒速日命とアラハバキ神を
奉じていたのです。
現代人の集合意識では、
船を空に飛ばすことができませんが、
縄文の復興を果たした古墳時代人なら
実現できたかもしれません。

高津宮


仁徳天皇の治世は
技術集団・秦氏が大活躍しました。
彼らの土木技術で暴れ川を鎮め、
河内湖を干拓して農地を作り、
飢えた民に食べさせたのです。
仁徳天皇が
もっとも大事にしたのは民でした。
天皇は民を大御宝おおみたからと言いました。

四條畷市立歴史民俗資料館


衣食住環境を整え、
農水産業を興せば、
自然に人口が増えます。
人口が増えれば労働力が増します。
その結果、
国が栄えて豊かになります。

仁徳天皇の国づくりとは、
子孫繁栄と人格形成、
つまり人づくりです。
それは肉体に刻まれた
種(魂の計画)を
発芽させることだったのです。

難波神社


種が魂の計画通りに発芽すれば、
ジグソーパズルをはめ込むように
神が計画した世界を
具現化することになります。

民が世代交代するたびに
魂のバージョンアップが図られ、
全体の底上げに寄与します。
これが循環型社会の本質です。

高津宮


仁徳天皇は
「種の保存」と伝えて来られました。
長らくその真意が
わかりませんでしたが
この記事を書いているうちに
わかってきたような気がします。

種(霊)は肉体に宿ってはじめて
魂の計画
実行できる協同作業です。
ゆえに
霊肉一体・霊主体従が
国づくりの根本です。


種には遺伝子が刻まれており
霊的法則があります。
このことを先祖代々
受け継がれてきたように、
今度はわたしたちが
先祖から受けた恩を
子孫に返してゆくのです。


今回も最後までお読みいただき
ありがとうございました。
父についてはこちらです。

仁徳天皇の治世についてはこちら

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