日本人が目指した理想の政治は不変の哲理に従った国造りだった。

歴史と政治の本質

松下幸之助さんが目指した
120年無税計画は
御年88歳で打ち出した事業計画でした。
そのことについてはこちら

それまで最も力を入れたのは、
世の中の役に立つ製品を
生み出す人材育成でありました。
わが国が戦後、
農業国から工業国へと
方向転換して経済大国となったのは、
生来ものづくりが得意だったからです。
農業も工業も人が携わるのですから
どんな仕事も人間性があらわれる
ということです。
このことが経営者が
人材育成に力を入れた理由であり
社員こそが財産だったからです。

茨田の堤


茨田の堤には
安岡正篤先生の顕彰碑があります。
東洋思想・陽明学者の安岡正篤先生は
松下幸之助さんと同世代であり
互いに交流がありました。

安岡正篤先生旧宅(東大阪市)


安岡正篤先生は大阪市で生まれ、
東大阪市の孔舎衙(日下)の
安岡家に養子に入り、少年時代から
四書五経を暗唱する天才でした。
四條畷中学校を卒業後は
首席で帝大(東大)に入学し、
卒業後は文部省官僚になりましたが
わずか3か月で辞職して私塾を開き、
皇室・政財界人の育成に尽力したのです。

善根寺春日神社(東大阪市)


官僚を辞めた理由は
国家の中枢に携わる者に人間性が
欠落していたからにほかなりません。
欠陥のある人間が正しい国家経営を
行えるはずがありませんから、
人間育成こそが

わが国に最も必要なことである
確信されたのだと思います。
安岡先生は昭和天皇の補佐役を務め
歴代総理大臣の精神的指導者でした。
そのため昭和の黒幕とも称されました。

安岡正篤先生講話

安岡先生の教えは
日本の伝統的な精神を守る
日本主義でありその根本は
宇宙の法則に基づいた哲理です。
日本古来の精神の礎は
宇宙不変の理に沿って築かれており
時代が変わろうとも
誰が政治に携わろうとも
わが国の国家経営の理念は不変

ということを表しています。

高津宮


為政者は個人的な考えを離れ、
自然界の摂理に沿った

創造の原理を運用することが
国造りの本質なのです。
このことを国政に携わる人物に
東洋思想を元に教えたのです。

宇宙の理に基づいた政治をした人物は
歴代天皇が理想とした仁徳天皇でした。
その実際は個人的考えではなく、
神の意思に従った神政でした。
仁徳天皇が奉じた神は、
生駒山(日下山)から登る太陽神。
すなわち饒速日命です。
そこは安岡先生の故郷だったのです。

大阪平野の歴史


(以下、民のかまどの物語 より引用)
仁徳天皇四年の2月6日、
天皇、群臣に詔をして曰く
「高台に登って国を望むと、
国内から煙が登っていない。
思うに、民はもうまったく貧しく、
米さえも家にないのではないか?
こういう話を聞いたことがある。
良き君主の世には、
人々は歌を歌い、家々もやすらか

という歌が古の世にあったと。
朕は国政にあたって3年になった。
歌声は聞こえてこない。
煙もまったく登っていない。
つまりは五穀が実らず、
民は窮乏しているのだ。
畿内ですらそうなのだ。
他の国では言うまでもなかろう。」

四條畷市立歴史民俗資料館


同年3月24日、詔して曰く
「今より以後、三年に至るまで、
全ての庸調(課税)、労役を免除し、
民の苦しみを取り除くのだ」

と宣った。
この日からボロボロになるまで
衣服や靴をつくらせず、
腐っていない食料は取り替えず、
宮殿の塀や屋根が崩れても修繕しなかった。
風雨が隙間に入り衣服を濡らした。
屋根から覗く星々が床をあらわにした。
こののち、
天候も季節に従い豊作となった。
三年の間、民は豊かになった。
民は日々の暮らしを謳歌し、
炊飯の煙も立ち上るようになった。

仁徳天皇七年4月1日、
天皇は高台から遠くを見渡すと、
煙がたくさん登っていた。
この日に皇后に語って曰く、
「朕はすでに豊かになった。
心配することは何もない。」

皇后は答えて曰く、
「何をもって豊かになったというのですか」
「炊飯の煙が国中に登っておる。
民が豊かになったということだ」

「塀は崩れ、宮殿は壊れ、
屋内でも衣服が雨に濡れる始末。
これのどこが豊かになったというのですか」
「天が君主を立てたのは民のため。
君主というのは、
民があっての存在なのだ。
古の聖王は民が一人でも飢えたり
寒さに凍えたりしたときには、
政策を見直し
自らを責めたという。
現在において民が貧しいということは、
朕もまた貧しいということ。
民が豊かになれば、
朕も豊かになるということなのだ。
この世では、
“民が豊かになって君主が貧しい”
ということは存在していないのだ」

高津宮


同年9月、諸国の民から
このような申し出があった。
「税も労役も免除になってから
三年になります。宮殿は朽ち、
政府の蔵はカラになっています。
今は我々も豊かになり道端の落し物を
さらっていく者もおりません。
里ではみな家族を持ち、
蓄えが充分できるほどになりました。
もしここで我々が税を払わず、
宮殿を修繕しなければ、
罰があたってしまいます」
それでもなお、
天皇は税を免除し続けた。

高津宮


仁徳天皇十年の10月、
免税から6年後にして天皇ははじめて
税・労役をお命じになり、
宮殿を再築した。
民は誰からも強制されることなく、
老いも若きも協力し、
材木や土籠を背負った。
昼夜をいとわず競って働き、
程なくして宮殿は落成した。
このゆえに、仁徳天皇は現在まで
「聖帝」(ひじりのみかど)と呼ばれ、
讃えられている。
(引用以上)

難波神社
仁徳天皇 民のかまどにみる聖帝物語

仁徳天皇のようにすべての政治家が
不変の哲理を実践していれば、
今ごろわが国は
地上天国になっているはずです。
けれども実際はその逆です。
それはなぜなのでしょう。
順を追って述べてまいります。

この続きは
不変の哲理は宇宙の法則であり
秩序である。これが神の本質なり。


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