トップ画面の写真は大阪平野です。
生駒山からの展望写真を
採用させていただきました。
パソコンをお持ちの方は、
一度大きな画面で確かめてみてください。
この景色が懐かしかったので、
2024年3月31日に故郷の
生駒山麓へ行ってまいりました。
![](https://123no493.blog/wp-content/uploads/2024/04/54.png)
縄文時代の大阪平野は生駒山のふもとまで
河内湾と呼ばれた海でした。
古墳時代中期(1600年前)には河内湖となり
現在はこのような姿になりました。
この写真をトップ画像に選んだ理由は、
幼い頃に見ていた風景だからです。
![](https://123no493.blog/wp-content/uploads/2024/04/大阪平野-1024x448.jpg)
![](https://123no493.blog/wp-content/uploads/2024/04/2024.4.1jpg.jpg)
わたしは石切と枚岡の中間地点の
額田で生まれ育ちました。
石切も枚岡も徒歩10分ほどでした。
ここで昭和50年代を過ごしました。
生駒山麓には縄文人が暮らした痕跡が
いくつも残っています。
![](https://123no493.blog/wp-content/uploads/2024/04/IMG_1811.jpeg)
現在の大阪平野になるまでは
長い歴史がありました。
豊臣秀吉は大坂城を建てましたが、
大坂城はかつて仁徳天皇の皇居・
高津宮があった上町台地で
もっとも高い位置にありました。
今から約1600年前のことです。
仁徳天皇は高津宮の高台から
民の暮らしを見下ろすと
民家から炊飯の煙が出ていないことに
気づきました。
少ない平地は暴れ川の水害に遭い、
人々は飢え苦しんでいたのです。
![](https://123no493.blog/wp-content/uploads/2024/03/IMG_1812-1024x797.jpeg)
仁徳天皇による
わが国初の土木事業は
治水から始まりました。
天皇は生駒山から登る太陽神を奉じて
神の意思に従った神政を執り、
大陸から百済を経由して渡ってきた
技術集団・秦氏を重用して
国家事業を成功させたのです。
秦氏は故郷の縄文遺跡を住処とする
天皇に忠実な一族です。
彼らのおかげで天皇は
衣食住を整え農水産業を開き、
飢えていた民を豊かにできたのです。
![](https://123no493.blog/wp-content/uploads/2024/04/スライド21.jpg)
その事績は
「民のかまど」の伝承として
後世に語り継がれました。
大阪の人が天皇を唯一
「仁徳さん」と呼んできたのは
遠い先祖が代々
倭の五王「讃」を忘れないように
言語に暗号化したからかもしれません。
記憶を暗号化して代々継承するのは
縄文遺伝子と男系継承のなせる業。
秦氏が厳格な男系氏族なのは、
祖国に住んだ祖先・縄文人の
記憶と血脈を守るためでした。
![](https://123no493.blog/wp-content/uploads/2024/04/dc705_01.jpg)
土地の縁は血縁と同様、
血の中に記憶が蓄積されています。
人も動物も方角を知る術を備えています。
渡り鳥は地球の磁場を読んで飛び、
鮭は川をさかのぼって帰ってきます。
鳥や魚に帰巣本能をもつ種族がいるように
人間も故郷に帰ってきた一族がいます。
それが秦氏です。
彼らには「個」の概念がなく、
つねに集団で行動してきたのは、
縄文遺伝子の特性なのかもしれません。
彼らは遺伝子に動かされ、
大いなる我(われ)と
繋がっていたのでしょう。
だからこそ
地縁と血縁を守ってきたのです。
![ひふみのしくみ](https://123no493.blog/wp-content/uploads/2024/03/b0409627_17181637.jpg)
血の赤は鉄の色。
秦氏は血の中の鉄が
磁場を指し示すことを知っていたのです。
彼らは鉄を扱う術を持ち、
渡り鳥のごとく文明発祥地を
移動していたからです。
人が故郷に懐かしさを覚えるとき、
土地の磁場と血の中の鉄が反応して
地球と同調しているのでしょう。
鉄を扱う秦氏は、
血の中の鉄が
地球の磁場を指し示す如く、
太陽系と地球の回転周期と
陰陽が宇宙を支配する理に従い、
地球が闇の周期にいる間、
祖国日下(ひのもと)を守ることを
使命としていたのです。
![](https://123no493.blog/wp-content/uploads/2024/04/IMG_8502-783x1024.jpeg)
わが国で事実上の初代天皇(大王)は
応神天皇。
尾張の分家から出たホンダワケノ命は
河内を拠点に朝廷を開いたのです。
応神天皇は王仁博士を河内に招聘し、
秦氏を家来としました。
そのため河内は秦氏の本拠地でした。
応神天皇を継いだ仁徳天皇は
縄文時代に河内を治めていた
饒速日命を太陽神として奉じたのです。
![](https://123no493.blog/wp-content/uploads/2024/04/高津宮-768x1024.jpg)
河内弁が
相手をワレ(我)と呼んで、
自分をワイ(Y)と言うのは
わたしはあなたであり、
Y遺伝子こそ自分と見る
縄文遺伝子を継承する男系氏族に
暗号化された言語だからです。
![](https://123no493.blog/wp-content/uploads/2024/04/b0409627_09495253.png)
河内のおっさんは
「おんどれ~」と言うけど
「おんどれ」もやっぱり
己(おのれ)➡おどれ➡おんどれ
で相手を自分と呼んでいるのです。
良く言うたら自他一体、
言葉のとおり裏表がない。
要するに河内のおっさんは
口は悪いが性根は優しいんです。
![](https://123no493.blog/wp-content/uploads/2024/03/b0409627_20551066.jpg)
河内では客人が来たら
「お茶でも飲んで行き」
と言ってもてなします。
ここで家人がお茶を出したら怒られます。
お茶=お酒です。
(ホンマでっせ)
![](https://123no493.blog/wp-content/uploads/2024/04/s0028_17_0.png)
一方、平安京を開いた京都では
宮中を穢さないよう、
きれいな言葉を言いながらも
心の中とは裏腹の
公家言葉が使われました。
だから京都の人が
「ぶぶ漬けでも食べて行き」
と言って客人を追い払うのです。
(ホンマどすえ)
![](https://123no493.blog/wp-content/uploads/2024/04/s0047_5_0.png)
わたしが東大阪(中河内)にいたころは、
『河内のおっさんの歌』のまんまの
河内のおっさんはぎょうさんおった。
ホンマでっせ。
秦氏はいつの時代も
国難から日本を守るためにあらわれる。
『河内のおっさんの歌』は
かつて河内で活躍した者たちが
令和の世によみがえることを
暗号化しているのです。
『ワレ、ワレ、ワレ』
=令和令和令和
![](https://123no493.blog/wp-content/uploads/2024/04/s0072_28_0.png)
昭和51年に空前の大ヒットを飛ばした
『河内のおっさんの歌』は
新ブログを立ち上げる際の
作業用に聴いて元気をもらっていました。
令和の世こそ再びヒットしてほしいと
ホンマに思います。
その理由は・・・?
続きます。