第16代仁徳天皇は
夢で神託を受け取り、
武蔵強頸と河内茨田連衫子を
川の神に捧げることにした。
なぜ神は強頸を死なせ、
衫子を生かしたのでしょうか。
このことは天皇の神託と
深い関わりがあるようです。
その答えは最後に。
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天皇が神託を受けたとおりに
執り行う政治を神政と言います。
神政を実践した天皇は国難を免れ、
国家安泰を実現してきました。
歴代天皇が夢で見る神託には
いずれも共通点があるのです。
夢のお告げを実践した歴代天皇は
第10代崇神天皇がいます。
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『日本書紀』によると
第10代崇神天皇は即位して5年目に、
疫病が大流行して人口の半分が死んで
死体の山ができたほどでした。
そこで天皇は疫病を鎮めようと
天照大神と倭大国魂神を
遷座したが鎮まらなかった。
即位7年、天皇は
「かつて皇祖は大いに聖業高く
国は栄え豊かであったのに、
朕の世になり災害が多い。」
と心を痛めその理由を占った。
すると倭迹迹日百襲姫命に
大物主神が乗り移って
自分を祀るよう託宣した。
しかし霊験がなかった。
そこで天皇は
「願わくば夢で教えてほしい」
と祈ったところ、
その夜に大物主神が夢に現れて
「もし我が子孫の大田田根子を以って
我を祀ればたちどころに平安となる。」
と告げられた。
この夢をほかの三名が見た。
そこで天皇は
大田田根子を探し出して
大物主神を祀る神主とすると、
疫病は終息し五穀豊穣となった。
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第2代から第9代天皇までの天皇は、
欠史八代(架空の天皇)とされています。
その次代となる第10代崇神天皇も
考古学的な痕跡はありません。
この時代にわが国で初めて作られた
巨大前方後円墳は箸墓古墳であり、
被葬者は倭迹迹日百襲姫命と
推定されています。
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箸墓古墳は
纏向遺跡のそばにあることから、
邪馬台国・畿内説、卑弥呼の墓説が
飛び交っておりますが不確定です。
纏向遺跡は
弥生時代後期から古墳時代前期への
転換期であったようです。
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倭迹迹日百襲姫命は
第7代孝霊天皇の皇女で
『日本書紀』によると大物主の妻。
大物主は大国主の和魂で
大国主と同一神であり、
大神神社の神で縄文の神様です。
崇神天皇は
「皇祖の聖業=古の政治は
国は栄え豊かであった」
と回想していることから、
歴代天皇が理想とした世は
縄文時代
であることがわかります。
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肝心なのは大物主の妻である
倭迹迹日百襲姫命に霊験なく、
大田田根子に大物主を祀らせれば
疫病が収束したということです。
大物主は弥生時代の
巫女(女王)による祭祀ではなく、
大物主の子孫である大田田根子に
先祖供養を執り行わせたのです。
この時代に巨大前方後円墳が
築造されはじめたことと、
馬具が発掘されたことから、
男系氏族の技術集団・秦氏が渡来し
縄文の太陽信仰がはじまったのです。
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一方、
神託に従わなかった天皇もいます。
第14代仲哀天皇です。
『日本書紀』によると仲哀天皇即位8年、
熊襲討伐のため皇后とともに筑紫に赴き、
神懸りした皇后から託宣を受けた。
それは
「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、
神に田と船を捧げて海を渡れば金銀財宝の
ある新羅を戦わずして得るだろう」
という内容だった。
しかし高い丘に登って大海を望んでも
国など見えないため、
この神は偽物ではないかと疑った。
神は再度、皇后に神がかり
「おまえは国を手に入れられず、
妊娠した皇后が生む皇子が得るだろう」
と託宣した。
これを天皇は無視して構わず
熊襲を攻めたものの空しく敗走。
即位9年2月に急死した。
神の怒りに触れたと見なされた。
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神功皇后は仲哀天皇に代わって
神託を実践するため
お腹に誉田別命を宿したまま
天神地祇をことごとく後ろ盾につけ
戦わずして新羅に金銀財宝を朝貢させた。
これを見ていた
百済・高句麗にも朝貢を約束させ
三韓討伐を果たしたのです。
帰国後、皇后は筑紫で
誉田別命(応神天皇)を出産した。
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倭迹迹日百襲姫と神功皇后との違いは
お腹に男子を宿していたことです。
誉田別命が誕生したことから、
第15代応神天皇の世がはじまるのです。
応神天皇が考古学的初代大王です。
さて、
仁徳天皇が探した河内茨田連衫子も
崇神天皇が探した大田田根子も
神託により選ばれた人物は
神との血縁と地縁があったのです。
その土地で起きた問題は
血縁・地縁ある者が執り行えば
スムーズにいくということです。
これが冒頭の答えです。
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崇神天皇が
弥生時代と古墳時代の
転換期を明確にしたのは、
男系氏族が渡来した時代に
三輪山に都を移し、
縄文の太陽信仰で
万世一系を謳い、
巨大前方後円墳が作られた
ことでした。
これが古墳時代の
神の政治と縄文の太陽信仰と
男系継承のはじまりだったのです。
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神とは宇宙の法則のことです。
宇宙の法則とは自然界の摂理です。
神の政治とは
法則に従うことですよ!
これを踏まえましてこちらもどうぞ。