これまでの
ひふみのしくみは
平氏について
取り上げたことが
ありませんでした。
そこで平氏の歴史を
調べてみました。
参考文献・図はこちら。

平氏は
平安時代はじめの
第50代桓武天皇の子孫が
臣籍降下したことから
はじまりました。
朝廷は藤原氏が
牛耳っていたため
天皇の子孫は京都から
放り出されたのです。
そもそも
桓武天皇の即位は
藤原氏の企みで
実現しました。
天智系の白壁王を
62歳で即位させて
山部王(桓武天皇)に
譲位させたのは
山部王は藤原氏の娘を
妻にしていたからです。
(×粛清された天武系の子女。
ただし早良親王は天智系。)

平氏の「平」は
平安京が由来だそうです。
平氏は公家と武家の
二系統に分かれました。
公家平氏の始祖は
桓武天皇の孫・平高棟。
武家平氏の始祖は
桓武天皇のひ孫・平高望。

平高望が
東国(坂東)
現在の茨城県と千葉県
を本拠地にしましたが
当時の坂東は図のように
湖や沼や河川で占められた
荒地だったのです。

高望の子ら
(国香・良兼・良正ら)は
将門の父・良将亡き後の
領地と利権をめぐる争いに
将門が巻き込まれて
同族の内乱になったのが
すべてのはじまりでした。
ちなみに平氏が
全盛期を築くのは
将門が生きた時代より
約200年後に生まれる
平清盛の時代です。

父を亡くした平将門は
15歳で京都に入り
右大臣・藤原忠平に仕えて
法律や儒教を学びました。
しかし
京都で出世するには
試験や実力ではなく
藤原氏への
物・金・土地の
賄賂が必要だったのです。
腐敗政治に失望した将門は
志半ばに帰郷したのでした。

東国は
防人や蝦夷討伐に
徴兵されてきたことや
水害や重い税に苦しみ
困窮を極めていました。
知識人となった将門は
法律家として活躍しつつ
産業で経済を回しながら
開墾事業に尽力しましたが
同族から嫉妬された上に
朝廷とは正反対の
方法論を採用したために
朝廷を脅かす逆賊に疑われて
討たれたのです。

ここから前回の続きです。
神田神社から
平将門公の首塚へ。
到着すると
先客が列をなして
参拝していました。
将門公への崇敬と
感謝の念が
より多くの人々を
引きつけている様を
目の当たりにしました。

700年前に建立された
平将門公の首塚は
関東大震災で倒壊。
その後、
大蔵省がそこに
仮庁舎を建てましたが
省の職員、工事関係者、
現職の大臣と10名もの
不慮の死が続いたため
仮庁舎を撤去しました。
首塚は再建・保存され
畏れと崇敬を
集め続けています。

平将門は
崇徳天皇
菅原道真
とともに三大怨霊に
された一人。
いずれも
平安時代の人物で
藤原氏にいじめられて
非業の死を遂げた者達。
彼らに共通するのは死後、
洪水、干ばつ、地震、
落雷、疫病、飢饉、
火災のみならず
死亡、不治の病などが
次々と藤原氏に
降りかかったこと。
藤原氏は
度重なる禍の原因を
自らの罪と顧みず
非業の死を遂げた魂に
責任転嫁して
怨霊と恐れたのです。

祟りを鎮めるために
御霊信仰が始まったのは
平安時代はじめ。
疫病を鎮めるために
平安京の鬼門に
素戔嗚命を祀った
八坂神社の祇園祭が
そのはじまり。
祟りの本質は
公家の政治が
自然の法則に
逆らっているからで
その根本を改めなければ
祟りと恐れる現象は
治まらないのです。

法則は
人間の感情や
情状酌量は一切なく
天罰も下さない。
ただ人間が
法則に逆らえば
不調和な結果になり
法則に従えば
調和した結果になる
ただそれだけです。
法則は
すべての生命体に
はたらく力学。
すべての生命体は
法則の支配下にあり
法則を支配することは
不可能。
しかし藤原氏は
この地球とは
逆回転の魂ゆえに
法則に逆らい続ける。
歴史がいつまでも
悪政を繰り返すのは
藤原氏が政治に
干渉し続けているため。

これまで降ろされた
八幡神の神託は
〇〇を天皇に立てよ
という内容でした。
その人物は
弓削道鏡と平将門。
いずれも藤原氏に
悪人と朝敵にされて
潰されてしまいました。
八幡神は応神天皇。
応神天皇は根源神。
根源神は艮金神。
すなわち素戔嗚命。
素戔嗚命は
乱暴狼藉の汚名を
着せられて封じられた
艮金神と同一神。

この神こそ
まことの太陽神。
まことの太陽は
陰湿で嫉妬深い者には
まぶしすぎるために
封じられたのです。
将門公は
素戔嗚命と同じ
不遇な運命をたどった
英雄だったのです。

以下、説明文を転載します。
東京都指定旧跡
将門塚
神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首をお祀りしております。平将門公は、承平天慶年間(九三一~九四六)に活躍され、武士の先駆けとして関東地方の政治改革に尽力され、弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けていました。
今を去ること一〇七五年ほどの昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍・平良将の子将門公は、下総国に兵を起こし、たちまちにして坂東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の革新を図りましたが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死しました。享年三十八歳、世にこれを天慶の乱といいます。
その後、将門公の首級は京都に送られ獄門に架けられましたが、三日後白い光を放ち、東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちました。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったとされ、村人は恐怖し、塚を築いて埋葬しました。これが、この将門塚と語り伝えられています。
その後も度々、将門公の怨霊が祟をなすため徳治二年、時宗二祖真教上人は、将門公に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建て、日輪寺にて供養し、さらに傍の神田明神にその霊を合わせ祀ったところ、ようやく将門公の霊魂も鎮まり、この地の守護神になったといわれています。
天慶の乱は平安朝の中期に当たり、京都では藤原氏が政権をほしいままにし、我が世の春を謳歌していました。遠い坂東では国々の司が私欲に走り善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血をしぼり、加えて洪水や干ばつが相続き、人民は食なく衣なく、その窮状は言語に絶するものでした。その為、これらの力弱い多くの人々が、将門公によせた期待と同情とは極めて大きなものがあり、今もって関東地方には数多くの伝説と将門公を祀る神社があります。このことは将門公が歴史上朝敵と呼ばれながらも、実は郷土の勇士であったことの証です。また天慶の乱は、武士が台頭する烽火であったと共に、弱きを助け強きを挫く江戸っ子の気風へと繋がり、今日の社会にも大きな影響を与えています。
江戸時代の寛文年間、この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、歌舞伎「先代萩」で知られる伊達騒動で伊達安芸と原田甲斐の殺害された場所でした。明治時代、大蔵省再建事業の際に崩されるなどしましたが、その後、昭和になり史蹟将門塚保存会が結成され、昭和三六年(一九六一)の第一次整備工事を皮切りに、幾多の変遷を経て、令和三年(二〇二一)に第六次整備工事として、現況のように整備されました。
将門塚は神田明神・創建の地でもあります。毎年九月彼岸の日には「将門塚例祭」が執り行われ、五月の神田祭の時には必ず鳳輦神輿が渡御して神事が行われる重要な場所です。将門塚保存会神輿も同保存会の方々により担がれており、現在も同保存会により大切に維持され、神事が行われています。
史蹟 将門塚保存会
江戸総鎮守神田明神

まだまだ続きますよ!







