陰と陽の正反対を
束ねられたら
過去と現在
未来さえも
束ねられる
わたしは今、
かつて長髄彦が
脳天に落ちてきた日に感じた
魂が歓喜に満ちた瞬間の
まさかと思えた未来を生きています。
もう30年以上前のことです。
あのときわたしはわけがわからず
自分がおかしくなったと本気で悩み
誰にも相談できずにいた
「確信」が「確神」となり、
そのミッションをやり遂げなければ
死なせてもらえないと思っています。
わたしにしかできない仕事です。
命がけでやらないといけないと
感じています。
とはいえ、
あまりにも詰め込んでしまうと
フリーズしてしまうので
何もしないことも大事なんです。
そういうときこそ
ワーッてわかってしまうのです。
そのときの感激は言葉では言えません。
心の中で大泣きしています。
何千年も前から
伝えてこられてきたのに
何でいままで気づかなかったのかと。
申し訳ない思いと
やっとわかったことの安堵。
ひとつわかればまた次がわかる。
今まで繰り返してきたことが
はっきりわかってくるのです。
これはわたし一人の仕事ではなく
全体でやっていることだとわかる。
これを客観的にやる感覚です。
わたしは全体の一部だからです。
そうすると全体像が見えてきます。
その視野を持つようになれば
個人的なことは取るに足らず、
物事の本質を
洞察する視点になります。
この視点に感情はなく善悪もなく
根本の原因がわかるのです。
実にシンプルなしくみです。
それがわかると
外界で起きている現象が
なぜ起きているのかがわかるので
テレビもネットもない時代に生きた
人の感性とか感覚の使い方が
なんとなくわかってきたような
気がします。
過去、現在、未来というのはおそらく
視点をどこに合わせるかによって
決まるのかもしれません。
それはラジオと同じく
周波数を変えることにより
チャンネルが切り替わるごとく、
単純なしかけなのだと思います。
わたしが
歴史を通してわかったことは
「本来時間はない」
ということです。
学校で学んできた歴史は
時間軸を平面にしただけの
本質を隠し続けるための
トリックなのです。
小6のときにもらった歴史の教科書は
国語や算数よりも分厚くて
勉強量の圧を感じたものです。
この分量にこれからの時代が
書き足されるのかと思えば
教科書はいったい
どこまで分厚くなるのか、
(*´Д`)うわ~
と思ったものです。
子どもの頃の感性は、
世の中に染まっていくとともに
閉じられてゆきます。
そのほうが生きやすいからです。
学問に感性は不必要。
感性という主観は
現在の学問体系の邪魔になるから。
けれども学問の本質は
どの分野も同じなのです。
数学や物理学も
極めれば思想哲学という
正反対の領域へと
つながってしまうように
やはり神の領域に至るのです。
それは法則の世界であります。
この世界は
本当はとても単純なのです。
この世界がこんなに複雑なのは
法則を無視しているからです。
法則を隠した者が
今の世界をつくったのですよ。
法則を隠した者が教科書を書いた。
だからあの分厚い歴史の教科書に
うんざりする内容を
延々と繰り返し書いている。
あれは内容が空っぽなのです。
本質はどこにも書いていないのです。
学校で教えてもらえないのは、
歴史上隠されてきたからです。
そのことを
お伝えしてまいりますね。